ノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセによる、バラモン(僧侶)階級の若者シッダールタが苦行を重ね、悟りの境地に達するまでの物語。シッダールタは釈尊(仏陀)の出家以前の名前だが、この作品におけるシッダールタは名前だけを借りた架空の別人。ヘッセはこの若者を通して、自らの20年にも渡るインド思想の研究によって得た宗教的体験を表現している。
昔観たNHKのテレビ番組で日本の高僧が「悟りとは平気で死ぬことだと思っていたが、そうではなかった。平気で生きることだった」と言っていた。死ぬことに対して平気になるだけでなく、生きている間に降りかかる事象に対しても平気にならないといけない、ということだと解釈し、妙に心に残っている言葉なのだが、本書でシッダールタが達する境地、すべてをありのままに愛する境地はまさにこれなのであった。
家を出たシッダールタはまず沙門の道に入り、苦痛や空腹に耐えることを学ぶ。しかし、耐えると言うことは苦痛に対して自己麻酔をかけているだけであって、ありのままに受け入れているわけではない。これでは悟りの境地には達しないと思い始める。
そんな時、悟りの境地に達したという、ゴータマ(仏陀)の噂を聞く。会いに行き教えを学ぶと、確かにゴータマは悟りの境地に達した人物であり、教えも素晴らしかった。しかし、シッダールタは教えを学んでいる限り、悟りの境地には達しないと考える。言葉で教えられない概念もあるということだろうか。
そこで彼は、遊女を通じて愛を、商人を通じて金儲けや博打を学ぶ。ありとあらゆる、世俗の享楽に浸り尽くすのである。享楽におぼれることすら悟りのステップである、という点は仏教的(?)で興味深い。遊び尽くした彼は絶望とともに自分の中で何かが死んだことを感じ、すべての財を捨て、川のほとりにたどり着く。
沙門としてのシッダールタ、ゴータマの弟子としてのシッダールタ、商人のしてのシッダールタといろいろあったけれども、どんな時でも、川はずっと川だった。同じように、実はいろんなシッダールタも、全部シッダールタなのだ。シッダールタは川との対話からそうしたことを見いだす。時があるから、ひとつの面に投影して見てしまうけれども、時を超越すればすべてが同居したシッダールタがあるというわけである。そしてそれは、シッダールタだけでなく万物について言えるのだ。万物が本質的には多くのものを包含しており、今見えているのはその一面だけなのだ。だからこそ万物には価値があり、愛することが、受け入れる(平気になる)ことができるのである。ここに至って、シッダールタに悟りの花が開くのであった。
160ページ程度の薄い本だが、詩的な文体が独特の雰囲気を作り出していると同時に、示唆に富む文章ばかりであり、読むのには思いの外時間がかかってしまった。 途中で読み止まって、内容について考えることが多かったためだ。自分の中で消化できていない部分も多く、何度も読み返すことになるのだろう。
印象に残った文をひとつ紹介する。悟りの境地に達した後のシッダールタが、かつての友人で、まだ悟りの道をさぐり求めているゴーヴィンダに語る内容。
おん身はあまりにさぐり求めすぎる、とでも言うべきかもしれない。さぐり求めるために見いだすに至らないのだとでも。インターネットの普及に伴い、情報をプルによって得る必要性が説かれる中、なかなか耳の痛い話である。
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