2011/01/19

タイガーマスク運動にみる、「社会運動はどうやって起こすか」

「社会運動はどうやって起こすか」の具体例?
 全国的にタイガーマスク運動が流行っている。中には愉快犯的な人もいて、この流れ自体には賛否両論あるが、寄付文化の育っていない日本において、恵まれない子供たちにへの善意に、スポットライトがあたったこと自体は悪いことではないだろう。できれば一過性の祭りに終わらず、全国民的に寄付文化を考えるきっかけになればよいと思う。

 さて、このタイガーマスク運動について、会社の後輩と話した時に「これは、TEDカンファレンスにあった“社会運動の起こし方”の具体例ですよね」という話になった。話の元になったTEDカンファレンスの動画は以下のもの。



タイガーマスク運動を検証してみる
 上の動画では、ある社会運動が起きるとき、重要なのはリーダーに続く最初のフォロワーだとしている。確かにリーダーには功績があるが、フォロワーが無ければただのバカであり、最初のフォロワーがバカをリーダーに変える。みんながリーダーを目指すのではなく、最初のフォロワーになる勇気を持つことも必要だというわけだ。

 さて、実際にその主張に沿ってタイガーマスク運動を検証してみたい。まず、最初に必要なのは「リーダーが勇気をもって立ち上がり、嘲笑される」ことだ。Googleニュース検索で調べたところ、最初の伊達直人は12月25日に群馬県に現れた伊達直人のようだ。彼は、もちろん嘲笑されてはいないし、立派な方だろうと思うが、この時点では年末のほっこり面白ニュースの域を出ていない。

 次に「ここで最初のフォロワーが重要な役割を担っています。みんなにどう従えばいいのか示すのです。」という点が指摘されている。今回のタイガーマスク運動で、最初のフォロワーは1月1日に小田原に現れた伊達直人だ。彼はフォローの仕方、つまり、単純に寄付を真似るのではなく、伊達直人名で寄付をすることを示した。TEDでは「最初のフォロワーというのは、過小評価されているが、実はリーダシップの一形態」と指摘している。また「最初のフォロワーの存在が1人のバカをリーダーへ変える」とも言っている。

 そして2人目。2人目のフォロワーは1月6日に静岡に現れた伊達直人だ。TEDでは「3人は集団であり、集団はニュースになる。だから運動が公のものとなる<」と指摘している。そして実際、これを機に「リーダーではなく、フォロワーを真似」た新たなフォロワーが続々登場しはじめる。Googleニュース検索で「伊達直人」のニュースを期間を区切って見ていくと1月7日以降、急激に件数が増加していることが分かる。つまり「臨界点に達し1つの運動になった」瞬間だったのだ。見事なまでに、TEDカンファレンスの通りに展開していることが分かる。

2011年1月7日までの「伊達直人」ニュース 37件
2011年1月8日までの「伊達直人」ニュース 1710件

勝因は「伊達直人」をフォローしたこと
 さて、このタイガーマスク運動が全国的に広がることとなった最大の要因はどこにあるだろう?TEDに従えば、言うまでもなく最初のフォロワーだ。しかし、単純にフォローするだけで良かったのかというと、そうではないと思う。TEDでも最初のフォロワーについて「フォローの仕方を示す重要な役割」と言っているように、リーダーのどの点を真似るかという所が重要だったと思う。そういう意味で、今回は「伊達直人」を真似たところが最大の要因だったのではないだろうか。
 これは、モノマネ名人の行う有名人のモノマネ似ている。モノマネの完成度は、つまるところ真似る対象のデフォルメの精度にかかっていて、巧いデフォルメは一般人にも真似(フォロー)される。そして、この時、一般人は有名人本人ではなくモノマネ名人のほうを真似ている。これは「新たなフォロワーがリーダーではなく最初のフォロワーを真似る」という指摘と同じである。今回は「伊達直人」に重点を置いてデフォルメしたことがウケて、多くのモノマネが続いたというわけだ。
 
フォロワーが出現しなかった伊達直人の例
 ちなみに、私の尊敬する漫画家の島本和彦センセイが、かつてラジオ番組「島本和彦のマンガチックにいこう!」の第45回(タイガーマスクを取り上げた回)で、「伊達直人から受け取ったものを具現化してるか!?感動は形にしたときに始めて次の世代へ受け継がれていくんだよ!」と熱く語っていたことがある。



とても良いことを言っているのだが、残念ながらフォロワーは続かなかったようで、社会運動には発展しなかった。こちらは失敗した例ということで・・・。
島本センセイ、その節はフォローできなくてスミマセンでした。

2011/01/10

成毛眞 「本は10冊同時に読め!」

本は10冊同時に読め!―本を読まない人はサルである!生き方に差がつく「超並列」読書術 (知的生きかた文庫)

ドS多読本
 本書は、本人も大変な読書家で知られる、元マイクロソフト日本法人社長の成毛眞氏による、いわゆる多読本だ。目次は以下の通り。

はじめに - 人生に効く「超並列」読書術
第1章 仕事も生活も劇的に変わる! 「速読」かつ「多読」の読書術
第2章 一生を楽しみつくす読書術 人生は、読書でもっともっと面白くなる!
第3章 「人生を楽しむ力」と「読書量」 忙しい人ほど本を読んでいる!
第4章 まずは「同時に3冊」から! 実践!「超並列」読書術
第5章 「理屈抜きで楽しめる」読書案内 私はこんな本を読んできた!
おわりに - 本は「人生を楽しむ」知恵の宝庫である!

同じく多読を薦めている、小飼弾氏や勝間和代氏の意見と共通する部分も多いのだが、決定的に違うのは、「だからお前はアホなのだ!」とばかりに様々な方面から「庶民」を責め立てる、ドSの文章だ。以下にいくつか例を挙げる。

たとえば「趣味は読書。最近読んだ本はハリポタ、セカチュー」という人は、救いようのない低俗な人である。
p4

本を読んでいない人間の話題は、スポーツの話、テレビの話、飲み屋の話、女性の話、金儲けの話が中心である。ユーモアがわからず、駄洒落をいえばいいと思っているような低俗な輩である。
p39

月に数冊ベストセラーを読む、というパターンがいちばん質が悪い。みんなが読んでいる本を追いかけるようにして読んで、その本の価値観や思想を鵜呑みし、それをさも自分が考えたことのように錯覚している人は、一生「庶民」からは抜け出せないだろう。
p70

新宿のサザンテラスにあるドーナツ屋はなんと2時間待ちだという。1個150円のドーナツのためにアホ面をさらしてそこまで待てる神経が信じられない。日本人は、みんな暇なのだろうか。
p87

全編がこの調子である。この切って捨てるような文章(論理的な意見も多いが、感情的な意見も混じっている)は好き嫌いが分かれそうだが、私自身は、意見の合うところが多い点、文章そのものが小気味よい点から心地よく読めた。というか、休むことなく一気に読んでしまった。

他の多読本と共通する点/しない点
 本書の主張自体はいたってシンプルで、「庶民」を脱出したければ本を読め、ということだ。すき間時間を活用して本を読む。1つの本を精読するのではなく、浴びるように様々な本を読む。読み始めた本でも、全部読む必要はない。読書メモはとらない。このあたりは、他の多読本でもよく出てくる内容だろう。
 一方、並列で10冊読むことの効能についての主張は独特である。仮に1冊の本のみを読むとすると、面白くない部分で集中力が落ち、惰性で読んでしまう。一方、並列読書の場合は、どれかの本が面白い部分に差し掛かっているため、集中力を保ったまま読むことができるというのだ。これは以下のように例えられている。

つねにいずれかの本はクライマックスを迎えているようにすれば、読書習慣が途絶えることはないだろう。それはたとえば、漫画雑誌が連載中の作品のクライマックスをずらすことによって定期購読を促しているのと同じである。
p29

読んできた本の紹介
 第5章では成毛氏が読んできた書籍の紹介もある。人生のいくつかのステージ別に整理されているので、参考にしやすいだろう。ここでも上述したような成毛節は健在だ。文豪の作品は人生の役に立たないと切って捨てている。また、マイクロソフト日本法人の社長に就任した時に、前経営陣のクビを切ったのは、直前に読んでいたマキャベリの「君主論」を忠実に実行したことによるとのことだ。
 このようなエピソードを読む限り、成毛氏はかなり「ぶっ飛んだ」人物だ。従って、本書のような読書法は誰にでも真似できるものではないかもしれない。しかし、このような「ぶっ飛んだ」人物の考え方を知るだけでも、十分に楽しめる一冊だと思う。

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竹中平蔵 「経済古典は役に立つ」

経済古典は役に立つ (光文社新書)

古典経済学の概論
 学生時代の私は、工学部に属していながら教養科目の○○概論が好きな学生だった。専門と全く違う分野の、大ざっぱではあるが体系的な知識に、大いに好奇心をかき立てられたものだった。本書はまさにそうした概論的な切り口で経済学を取り扱ったもので、慶應義塾大学にて開催された「問題解決のための経済古典」という講義を元にしている。目次は以下の通り。

はじめに
第1章 アダム・スミスが見た「見えざる手」
第2章 マルサス、リカード、マルクスの悲観的世界観
第3章 ケインズが説いた「異論」
第4章 シュムペーターの「創造的破壊」
第5章 ハイエク、フリードマンが考えた「自由な経済」
おわりに 

理論だけではなく、背景も
 経済学の始まりはどこか?諸説あるだろうが、本書では「国富論」の刊行を始まりとしている。また、それ以前に経済学が存在しなかったのは、封建制のため経済的自由が無く、労働市場が存在しなかったためと分析している。そうしたことから、本書では「国富論」のアダム・スミスをスタートにし、1986年にノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ブキャナンまでが登場する。
 全体としては、経済学の成り立ちから、現在までの道のり、すなわち議論の変遷を各時代の経済学者と共に紹介している。単純に理論のみを紹介するのではなく、その理論が述べられた当時の社会的背景、また経済学者個人の生い立ちや、影響を受けた人物など、人物像も合わせて紹介されている。狙いとしては「こういう人が、こういう時に、こういう主張をした」ことを合わせて知っておくべき、といったところだろう。各々の情報が断片化せず、非常に理解しやすく感じた。

思想があって政策があるのではない
 各々の経済学者についての記述もさることながら、非常に印象深かったのは、「はじめに」で述べられる下記の部分だ。

私自身、経済思想に少なからぬ興味をもっている。しかし、重要なことは、アダム・スミスやケインズ、あるいはシュムペーターなどの偉大な先達が、それぞれ目の前にある問題を解決しようとしたことである。つまり、彼らの経済思想が先にあり、それを使って問題を解決しようとしたのではなく、彼らが提示した問題解決のスキルが蓄積されて、結果として思想になったということである。
p7

例えば、ケインズと言えば1930年代の大恐慌の際に、大規模な財政出動をしたことが知られており、そうした政策を「ケインズ的」と呼ぶ向きがあるが、彼は「財政出動すべし」という思想を持っていたわけではない。その時の様々な知見から、そうした状況に対する個別の処方箋として財政出動を選択したに過ぎないのだ。冒頭にこのような力強い記述をもってくるあたり、レッテル貼りを嫌う竹中氏らしい。

さすがの分かりやすさ
 また、経済ってそういうことだったのか会議で遺憾なく発揮されていた、説明の上手さは健在だ。何を述べるかを知らせた後に伝えるべきことを述べ、伝えた後にもまとめを行うためスムースに頭に入ってくる。内容は専門的だが文章は平易で、数式もほとんど出てこない。講義のまとめ直しということもあってか、現在の民主党政権の政策にチクリと嫌味を言う場面が幾つかあり、普遍性を損なっている点が惜しいが、一般人の経済学史入門には十分なクオリティと言えるだろう。

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